養父市に生まれた上垣守国は享和3年(1803)に『養蚕秘録』を出版します。シーボルトによってオランダに持ち帰られた『養蚕秘録』はフランス語やイタリア語に訳され、日本式の養蚕技術をヨーロッパに広め生糸産業の発展に貢献しました。その後ヨーロッパの技術を取り入れて建設されたのが群馬県の富岡製糸場です。
平成26年6月21日、群馬県「富岡製糸場と絹産業遺産群」は世界文化遺産登録が決定しました。これは建造物としての富岡製糸場だけでなく、日本の養蚕の発展を推進した養蚕技術とそれを発明した功労者を顕彰するものです。養父市の養蚕も群馬県との交流によって繁栄しました。
1770(明和7)年 | 上垣守国は境島村に蚕種の買い付けに行く。守国は養蚕技術の向上のため、群馬県や福島県などで多くの養蚕家と交流している。『養蚕秘録』に奥州流(福島県)・関東辺(群馬県)・信州流(長野県)・江州流(滋賀県)・但馬丹波丹後(北近畿)の養蚕方法が挿図として描かれている。 |
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1803(享和3)年 | 上垣守国が『養蚕秘録』を出版。 |
1881(明治14)年 | 養父市大屋町和田に器械製糸場ができる。 |
1887(明治20)年頃 | 高山社から養父市に40人の養蚕教師が派遣され、その内8名は養父郡役所の養蚕指導員として活躍する。 |
1914(大正3)年 | 郡是製糸株式会社八鹿工場が完成。 |
1918(大正7)年 | 郡是製糸株式会社養父工場が完成。 |
上垣守国は養蚕によって農民の貧しい暮らしが豊かになるように、生涯をかけて研究した養蚕技術を『養蚕秘録』にまとめ、世の中に広めるようにと考えました。その志は田島弥平や高山長五郎らにも受け継がれ、『養蚕秘録』は日本における近代養蚕業の基礎となりました。
3階建養蚕農家は、養父市を中心とした但馬地方に残る養蚕専用の建築様式を持つ3階建家屋のことをいいます。養父市ほど多く残るところは全国でも例がないといわれています。
明治38年、養父郡内21、美方郡・城崎郡・出石郡各6、朝来郡12の製糸場がありました。これらは大正3年(1914)に、郡是製糸株式会社八鹿工場、大正7年養父工場に統合されました。
明治30年、全国で3番目の養蚕学校として兵庫県立簡易蚕業学校が養父市八鹿町に設立されました。学校は、現在の県立八鹿高等学校や県立但馬農業高等学校に受け継がれています。
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